know thyself ― ひきこもりのチラシの裏

ひきこもりの私的な日記ブログです。

生きる意味

なんというか、テレビは同じ話題ばかりをずっと取り上げるという印象があります。
ちょっと前は日大の殺人タックルばかりだったのですが、現在は米朝首脳会談ばかりとなりました。
重要度から米朝首脳会談をどこでも取り上げるのはわかるのですがね。

そんな米朝首脳会談の後に取り上げられるニュースの中で、9日に東海道新幹線の車内で起きた殺傷事件があります。
22歳の男性が新幹線の車内で乗客をナタで切りつけるという事件です。
ニュース記事のリンクを載せておきます。

www.sankei.com

このニュース記事を読むと、少し自分と似てると思ったのです。
自分もこの男性も、"生きる意味"を持っていないということです。

事件について

上に載せた記事によると、この男性は家族に「生きてる価値がない」と語り、自殺願望があったとのことです。
でも、そんな中でも彼は行動しており、自分なんかよりよっぽど外に出ています。

その記事には、定時制高校を卒業後、職業訓練校に入り、電気工事などの各種資格を取得し、機械メンテナンス会社に就職までしています。
しかし、人間関係がうまくいかなかったらしく、約1年で退職してしまいます。
その後、祖母のもとで引きこもりの生活を送り、旅に出るからと半年前に家を出て、この事件を起こしています。

この男性の生い立ちを調べてみると、両親とはあまり良くない関係だったようで、中学時代には生活支援施設に入所しているようです。
確かに、テレビで取材に答えてる男性の父親の受け答えは、完全に息子ではなく他人扱いでした。
どうやら、旅に出てからの資金は祖母の口座から引き出していたらしく、この祖母だけが彼の理解者だったようですね。

このニュースに関したネット上のコメントをいくつか簡単に拝借させてもらうと、
「理解できない。」
「ストレスの捌け口で他人を殺していい訳ではない。精神病院に通院歴があるみたいなので、こういう人物は刑務所から出してはいけない。」
「なぜ価値ある生き方を選ばなかったのか。」
という、もっともな意見が山のように、いたるところにありました。

それもそうでしょう。
自殺願望があるのに、自分ではなく他人を殺そうとするということがおかしな話です。

個人的に思うことですが、そういった『おかしな行動』は人間社会の中でのことです。
一歩人間社会の輪から外れてしまうと、もはや普通ではなくなり、『おかしくないこと』に該当するのでしょう。

彼の中でまだ社会的モラルが保たれているのときは、自分という存在が異常だからこそ、いっそのこと自分なんか消えてしまった方が社会的に良いと思っていたのかもしれません。
その一方で、社会から離れ引きこもりの生活を送るようになると、社会と接していない分モラルが欠如していき、どのような方法でもよいから自分という存在を消すのでなく、みんなに注目してもらう、存在を認めてもらう、そんな考えが生まれたのかもしれません。

何か夢や希望を持っていれば、その光に向かって進むことができるでしょう。
その途中、困難や苦悩といった壁ができたとき、手を差し伸べて支えてくれる存在があれば、きっと茨の道でも進めることができるでしょう。
でも、彼にはそのどちらもなかったのかもしれません。
まわりの明るい光に耐えかねて消えてしまいたいという気持ちと、その明りに以上に自分も輝きたいという気持ちが入り混じっているのかもしれません。
そのような複雑な感情を、彼と同じ状況でない者が理解できるはずもありません。

とはいえ、だからといって彼の犯した罪が許されるわけではありません。
どんなに自身における環境や苦悩を理由にしたところで、他人を襲い、ましては殺していい動機にはなりません。
精神疾患を理由にした減刑や、裁かないという形にはしないでほしいと思います。
加害者側ではなく、この遺族や被害者の方々が報われる判決をしてもらいたいです。

自分という存在の自然消滅と閃光消滅

孤独な人間が人間社会の輪から外れてしまったとき、"人間の命"の重みが軽くなってしまうのかもしれません。
自分の命も、他人の命も。

結局同じ命なら、相手がどんな人間であったとしても、自分と同じような軽い命であろうという結論に至るのでしょう。
どうせ消えるならここで罪を犯したとしても、その後自分の死をもって償えばよいと。
そう思えてしまうのかもしれません。

人間社会の中にいるとき、みな倫理的な感情によって犯罪を犯さないわけです。
つまりは社会的モラルや、世間体といった人間社会の一員という認識が必要なわけです。
だから、みな犯罪者や犯罪をほのめかすSNS上の発言などがあれば、正義の鉄槌と言わんばかりに叩き、炎上するわけです。

しかし、人間社会の輪から外れた人間は、そういった倫理的感性がマヒしてしまうのでしょう。
もしかすれば、それ以前に人間社会において何らかの苦痛を受けたのかもわかりません。
実際、上記の生い立ちにも書いた通り、生活保護施設に入所しているわけですから。
そうなれば、いとも簡単にモラルや世間体、社会的ステータスなど捨て去ることができると思うのです。

そう考えると、一瞬でも世の中に注目されたいと考えるのもわからなくはないのです。
人間社会の中では悪い形でも、彼の中では正義であって、多くの人たちに自分の名を知らしめることができます。
これもまた自分という存在の確立になるでしょう。

ま、自分なんか、このブログやTwitterがなくなれば、もうきっとこの世に自分の存在を証明するものなんて何もないですからね。
だから、やっぱりそういった行動原理はわからなくないのです。

空っぽな存在

この手の事件、ほぼちょうど10年前に秋葉原通り魔事件があり、平行してニュースでも取り上げられてました。
この事件を起こした男性も、現実世界に居場所がなく、ネットのみが唯一の居場所としていました。
事件の起こした動機は、そんな唯一の居場所であるネットでもバカにされるようになってしまい、そんなネットの人たちに注目してもらうためというものでした。

この秋葉原通り魔事件の男性は、実際には現実世界においても趣味の合う友人などがいたそうです。
ネット上においてもオフ会などを自ら主催して行っており、傍から見れば孤独とは無縁の人物でした。
仕事においても無職だったわけではなく、事件当時は派遣社員だったようで、事件前は無断欠勤してたようです。
それ以前も仕事を転々としているようですが、正社員としても働いていたこともあるそうです。
しかし、やはりこちらも人間関係に不満があるということで転職を繰り返してたそうです。

この他の事件でも、誰でもいいから殺したいとか、そういった明確な相手がいない動機の事件、調べればいっぱい出てきます。
全てに共通するとは言い切れませんが、大体は自分のような人物が犯人のような気がします。

生きる意味を失った孤独な人間。

自分の勝手な推測に過ぎませんが、そのような方々ばかりのような気がするのです。
もしかすると、こんな自分と似たような方々が意外にもいるのかもしれませんね。
犯罪を犯していないだけで。

では、生きる意味をどうやって見つけ、孤独にならないようにすればよいのかという話になると思うのですが、自分自身もそのような人間なので語れないわけであります。

でも逆に言えば、普通の人にとっては、普通の生活を普通に送っているわけで、こういった生きるということの虚無感などないわけです。
なので、人間社会に所属し生活するということになんら疑問に思わないでしょう。
もちろん、多少人間関係や人生のことで悩みはするとは思いますが、こんなことにはまずならないでしょう。

つまり上記にも書いた通り、きっとこの深い話はその手の専門家でも何でもなく、このような社会の輪から外れた社会不適合者にしか理解しえない話なのかもしれません。

自分の存在証明と孤独感

ここからは完全に勝手なことを書きます。

結局、どんな人間も突き詰めればみんな孤独なわけです。
どんなに友人や恋人、家族がいたところで、所詮は他人です。
自分と他人が特定の場の中でどう関係し、どのくらいお互いのことを知っているのかってことだと思います。

家族や職場や学校など、人間は何かしらのコミュニティーという場に所属することになります。
そしてそれぞれの場の中で人間関係が構築されるわけです。
この時、他人という存在があるからこそ、自分という存在が確立するわけです。
自分という存在と他人という存在をお互いが理解し、認め合う存在となったとき、それは親しい関係ということになるのだと思うのです。

ここで重要なのは、お互いが理解し認め合わなければならないということです。
どちらか片方でも欠けてしまった場合、それは表面上は親しく見えても実際は単なる他人にすぎず、コミュニティーに所属しているのに孤独を感じることになるのだと思うのです。

現実社会の場は、そうして個人個人が存在を確立する必要がある一方で、ネット上だと話が変わってきます。
それは特定の人物同士の関係ではなく、不特定多数の場による関係となるということです。
このため、相手のことを気にせず自分の好きな主張を一方的に展開することができます。
現に今、自分ハマグリの意見を一方的にこのブログに書いているのですから。

そして、この自分の主張を肯定してくれる人こそが自分にとっての親しい人と一方的になるわけです。
自分にとって都合の良い関係というのが構築されるわけです。
この結果、現実社会に親しい人がいなくても、ネット上には自分の理解者がいる、そんな形になるのだと思うのです。

ネット上の場における関係は、自分という存在も他人の存在も、あらゆることにおいて都合がよい関係を築くことができます。
これは、心の距離感を自由に切り替えられる、いわば心の防衛本能といえると思います。
現実社会では、自分という存在を確立してるからこその重みと責任を伴います。
そして、現実社会で負った傷は心に直接負うことになるのです。

しかしこの都合のよいネット上の関係は不安定極まりないわけです。
当たり前ですよね、自分の主張を肯定してくれた人だけを一方的に親しい人としているのですから。
それも、その肯定した人も特定の個人ではなく、不特定多数の内の誰かというだけです。
なので、ネット上での関係は特定の人同士の関係ではなく、ネット上にある特定の場に依存した関係となるのです。

特定の人ではなく特定の場との関係のため、ネット上に真の理解者という存在は作れないのかもしれません。
理解者がいない以上、自分という存在は認めてもらえないことになります。
言い換えれば、自分の存在証明が成り立たないということです。
この結果、ネット上に自分の居場所があるのに孤独を感じるのだと思います。
なので、親しい関係の条件として"互いを理解し合う関係"が必要なのだろうと自分は思います。

幸福感

わざわざ不幸を望む人間なんていません。
誰だって幸福になりたいと願うでしょう。

それでは幸福とは何かというまた哲学めいた話になるのですが、これは長い記事になりそうですね。

まぁでも幸せでなければもう絶望しかないわけで、やはり幸せにはなりたいですよね。
絶望しかないなら、生きてること自体が苦痛でしかなく、やはり自殺願望を持つわけです。
逆に幸福であるならば、孤独であっても前向きに生きられます。
つまり、幸福であることがその人の心に余裕を作ってくれると思うのです。

よくこの手の議題で必ず出てくる世界幸福度ランキング、日本は低い方らしいですね。
大体これが議題で出てくる場合、日本はランキングが低いので幸福を感じられない国だから、幸福感が上がるような政策やら改革をしなければならないって流れになるやつです。
ちなみに2018年の日本は54位なんだそうです。

rocketnews24.com

それはともかく、常に幸せでいるにはどうしたらいいのかっていう話ですが、やっぱりそんなことわかるわけないんですよね。
それがわかれば、自分はこんなクズ人間にはならず、このブログも作ってないでしょう。
そして、みんな幸福になる方法使って、この世界は幸せで満たされていることでしょう。

とりあえず、幸福を得られるパターンを考えてみようと思います。
個人的に、そう考えると本能と理性に分かれると思うんですよね。

本能は、食欲や性欲、睡眠など、生物的な本能に関する欲に由来する幸福です。
美味しいものを食べた時は幸せですよね。
いっぱい深い睡眠が得られた時とかも、やっぱり幸せですよね。

理性は、例えば何らかの勝負ごとに勝つとか、希望している学校や企業に入れたとか、そういった社会的な物事に関する欲に由来する幸福です。
仕事とかで何かを任され、それが達成したときとかはきっと幸せだろうなって思うんですよね。
そして、その仕事の成果が他の人々の役に立つって考えると、俄然やる気が出るかもしれません。
ま、自分なんかの例えだと、やりもしないソシャゲをとりあえずインストールして、無料の初回10連ガチャで最高レアを手に入れた時は幸せですね。
プロフィール画面とかで見せびらかして悦に浸り、その後アンインストールって感じです。
情けないですね。

で、この二つ以外にもう一つ、生物的でも社会的でもない自我に由来する幸福というのがあると思います。
例えば、自分の好きな本とか以前記事にしたアナデンの世界観に浸るとか。
要するに好きな物事を行って得られる幸福です。

これらの幸福は、分けはしましたが、みな重なり合っています。
自分の例えだと、ソシャゲの10連ガチャで最高レアが手に入った時の幸福は、社会的な部分もあれば自我の部分もあります。
食事でも、一般の人じゃ頼めない超高級料理を食べて悦に浸るとか。
色々あると思います。

で、個人的に、幸福感というのはこれら全てがきちんと満たした状態のときに明確に得られるのではないかって思うのですよね。
つまり、上に挙げた中から一つだけではその時だけの幸福にすぎず、心の底からの幸福感は得られないのじゃないかなってことです。
何をやっても楽しくないし、幸せではないということは、そうした自分の中にある満たされてない部分があるからだと思うんですよね。

ならば、満たせばよいわけですが、そんな都合よくはいかないわけです。
自分の中で、何かどう幸福が足りてないとか、そんなことなんてわかりませんよね。

そもそも今の現状が幸福か否かの問いはよくありますが、それでは具体的にどう幸福なのかってことは気にしたことがあるでしょうか。
これに即答できる人自体、そうそういないのではないかと思います。
直近で何か特別なことがない限り、大体は漠然と幸せか不幸かということを感じてるのではないでしょうか。
まあ、これは自分の完全な推測にすぎないわけですが。

でも、もしそうであるならば、幸福というのは日々の生活の中に漠然と存在しているのであって、そんな幸福を生活の中から発見できるかどうかになってくると思うのです。
つまり、幸福感は自分の置かれてる現状が、生物的にも社会的にも自我においても安定していることだと自分は思います。

自分とは何か

そうはいっても、やっぱりどうやって日々の生活の中から幸福を発見するのかって話です。
そのためには、やはり自分を知る必要があるのでしょう。
自分という存在は他人がいるからこそ確立すると上に書きましたが、それではそもそも自分とは何かっていう話です。
というかここまで来て、今回は完全にエセ哲学記事となってますね。
まぁいいでしょう。

今の自分というのは、どのような流れで今の自分になったのかって考えると、決して自分一人でもって今の自分になったわけではないでしょう。
やはり他人の存在があるからです。
生まれてから家族という場の中で育ち、親戚や近所の方々、学校では友人や先生などなど。
そのような社会に属し、影響され、自分自身というものが形成された結果が今の自分と言えるのではないでしょうか。
つまり今の自分とは何かと考えると、まわりの環境でもって形成された存在と言えるかと思います。

であるならば、その環境において幸福を発見し、感じられるかどうかということになってきます。
ここで幸福が発見できない環境ということなら、自分が変わるだけなく環境も変わる必要があるってことです。
ここまでくると、もうトンデモの話ですね。
書き込んでいる現在、これを投稿しようか悩むメンヘラ記事のような気がしてきました。

生きる意志

ま、思ったことを最後までとりあえず書いておこうと思います。

自分とは、まわりの環境に属する存在と書きましたが、それは単純なコミュニティーという場に属するとは違うんですよね。
この違いは、本人の意思や意図に関係があるかないかっていう違いがあります。
子は親を選べませんし、みなさんが住んでる近所の人たちだって選べません。
環境は、そうなるようになった結果に構築されます。
そして、そういった中で互いに影響しあい変化していきます。

ネットが普及した現在、現実での簡単な付き合いというのは減っていく傾向にあるようですね。
ネット上ならその場だけの関係なのでリスクは低いですが、現実だと住所などの個人情報も特定できちゃいますし、リスクが高いってわけですね。

ま、とにもかくにも、環境を変えることにより自分を変え、日々の生活の中から幸福を発見する。
そして、様々なコミュニティーの場に所属し、様々な人たちと会い、親しい関係を築き上げる。
これにより自分という存在を確立し、孤独感をなくす。
こういうことですわな。

と、言うのは簡単ですが、こんなことがすぐにできるのなら誰だってやっていることでしょう。
たしかに単純に書くのならそうなるのでしょうし、長々書いてますがそんなことは言うまでもなくみんな理解しているはずです。

ここで重要なのは、変わるために行動する、そういう意志です。

自分自身を理解するために行動する。
人間関係が合わないのであれば、合うような職場をひたすら見つける。
幸福を感じられるような生活を送る努力をする。
結局これしかないんですよね。
何かを始めなければ、何も生まれないわけで、結局その原動力となる意志が必要になるわけです。

この意志もまた自分を形成した環境に依存すると思っています。
英語を身につけたいならネイティブのいる海外へ行けってやつです。
ぬるま湯に浸かった生活だと意志も弱まってしまいます。

つまり、意志は自分だけでなくまわりの環境からも生まれるということです。
何かを変えようとしている人がいたら、苦しんでいる人がいたら、手を差し伸べてくれる環境が必要なのだと思うのです。
そしてそれこそが、自分自身を新たに形成し、そんな自分自身を他人と触れ合うことで理解する。
これが人間なのだろうと思うのです。

上辺だけの正義

ここで話を最初の犯罪に戻しますが、新幹線での殺害を行った男性の理解者であった祖母は、実際は理解などしていなかったってことです。
つまり、彼を見捨ててはいなかったけれど、放置してたにすぎないのです。
もし、お金をあげていなければ、そもそもナタも買えていませんでしたし、新幹線にも乗れてません。
もっといえば、旅に出ていないことでしょう。
そうなった場合、この男性の牙は家族に向いていたことだと思います。
そういったことから、この祖母は彼が家を出たことで内心ホッとしてたかもわかりません。

秋葉原の通り魔の男性も、もしネット上以外に彼の居場所があったのであれば、あのようなことはしていなかったはずです。
先にも書きましたが、彼は友人などがいなかったわけではありません。
しかし、彼は孤独だったと語っています。
彼の両親は非常に厳しかったらしく、傍から見れば虐待の域だったそうです。
特に母親がひどかったらしく、彼に完璧を求めてたとのことです。
そうした環境で育った彼は、理解のある友人が作れなかったのかもしれません。

そういった視点から見れば、彼らは環境によって社会になじめない社会不適合者になり、その末に反社会者となったわけです。
もし、彼らを支え、心を変えられる存在がいたのであれば、違った人生を彼らは歩いてるかもしれません。

こう簡単に自分は書いてはいますが、それは難しい話です。
果たしてそうわかってたとして、彼らに手を差し伸べるような人々がいるでしょうか。
まずいないでしょう。
コメントでも正しい道を選べだのなんだのと書かれていても、その正しい道とやらを照らしてあげる存在がいないのであれば、やはりそれはただの空っぽの言葉にすぎないと思います。
結局正義を語って自分に酔い、同じように語る人との考えの共有感に浸るだけであり、そんな見ず知らずの人に手を差し伸べる人などいないでしょう。
それは、当然自分もそうです。

生の追求

ここまで長々書いてきましたが、結局そうまでして生きるというその意味とは何なのかってことです。
生まれてきた以上、死ぬまで生きなければならないわけです。
それでは、その生きるという意味は何なんでしょうか。

おそらく、その意味は人によって形は違うのでしょうが、突き詰めたところは幸福を得ることなんだと思います。
先にも書きましたが、不幸を望む人はいません。
誰だって幸せを望むわけで、その先には幸福に包まれて生きるということであり、すなわち生きる意味につながってくると思うのです。
つまり、生きるということは人生を謳歌するなんて言いますが、その人生の謳歌とは幸福の謳歌なのでしょう。

そして、生きた価値というのは、その人生を謳歌している人に対して、他人から価値がつけられるのだと思います。
つまり、生きた価値とは自分でつけられるものではないと思うのです。
あの人は天才だとか、伝説だとか、自分自身で称するものでなく、多くの他人から称されるものではないでしょうか。

犯罪という選択をとった彼らの行動は、社会に属した人たちを殺し、自分を証明することでした。
きっとそれは、今まで満たせなかった空っぽの自分を満たすという自己証明の幸福を追求した結果なのでしょう。
そして、実際にニュースで悪い形であるとはいえ多くの人に知られ、彼らとしての存在価値がついたのだと思います。

意志の根源

行動するには意志が必要なんて書きましたが、その根源の部分は何かを守るというものだと思ってます。
マンガやゲームなどで勇者の力の根源は世界を守るというのがありますが、反対に魔王の力の根源はなんでしょうか。
大体世界征服するため悪い方法で生み出された力なんて表現されてますが、根源の部分では魔王の野望であり、自身の強い意志だったりするんですよね。
つまり、魔王は自分自身のプライドを守るために世界征服を目指すわけです。
まぁ強引な見方だとは思いますが、この理屈なら人の行動はみんな何かを守るためってなると思うんですよね。

逆に言えば、その守るものがない人は、意志なんか生まれないわけなんですから、物事に対して頑張れるわけないと思うんですよ。
つまり、もし自分みたいなひきこもりクズニートの人がここを見ていたら、守るものができたその時から頑張ればいいと言いたいんですよね。
なぜなら、意志も何もない以上頑張れないんですから。
そんな状態で行う物事なんて中途半端に終わるだけです。

生きる意味が幸福を得ることなら、幸福につながる何らかの守るべきモノを見つけ、その時動けばいいのだと思います。
ただ、その守るべきモノが反社会的な形にならないでもらいたいです。

あとがき

今回もまた長ったらしく書いてきましたが、今までで一番酷い記事だと思います。
今ここで読み返してみると、自分の勝手さと醜さがあらわれてる記事ですね。
でも、今の自分をあらわしてる記事でもあるので、もし今後も自分が生きていたら、この記事を振り返ってみたいと思います。

それにしても、犯罪者とはいえ、適当なことを書いてしまいました。
これは完全に自分の推測に過ぎず、見ようによっては彼らの心に土足で踏み荒らしてるようなものですよね。
本当の心は直接聞くしかないわけで、ここに書いた形とは違うのだと思います。

と、ここまで書いてもう一度言っておきますが、犯罪を犯した方々を擁護しているわけではありません。
犯罪を犯した以上、彼らは罰せられなければなりません。
こういうことは結局、犯罪だけではないでしょう。

自分なんか外に出れば指をさされて嘲笑われる存在です。
職歴も資格も何もない、空白だらけの人間です。
それは言ってしまえば、自分はそういう選択をとったというだけのことで、その選択は変えることはできません。
一度犯した罪も、人生の選択も、過去の出来事は変えることもやり直すこともできないわけです。
できるのは、今これからの行動でもって示すしかないわけです。

そして、犯した罪は誰がどのように行っても罪です。
精神鑑定という形で責任能力がないとか、そのようなことは正直どうかと自分は思っています。
被害にあわれた方や亡くなった方の遺族の方々は、そんなことでは納得がいかないはずです。
公正な判決が下されてもらいたいと思っています。

とまぁ、本当に長々書きましたが、元々はソシャゲ編のこととこれからのことを書こうと思ってました。
というか、ちょっと書いてました。
たまたまニュースで新幹線殺害事件のニュースがやってまして、その逮捕された男性が自分と同じ生きている価値がないということを主張していたもので。
で、気になって彼を調べてみると、上記の通り職歴があり、資格もあり、おまけにまだ22歳と若く、顔も確かにイケメンではないものの、きちんとオシャレして着飾ればきっとモテなくはない容姿だったわけです。
まぁイケメンかどうかは人によって意見が変わってくるのでなんとも言えませんが、自分よりは圧倒的にイケメンであることは言うまでもありません。
そんな感じで、もう自分とは月とスッポンみたいな人物なのに、どうしてこんなことをって思ってしまって。
そして色々と考えてしまって、彼のまわりの環境がよくないのだなって思い、長々こんな記事を書いてしまいました。

どうせ長々書くなら色々話題があるだろうに、自分はホントダメですね。
例えばゲームなら、今ちょうど最大のゲームの見本市であるE3 2018がはじまりましたよね。
バイオハザード2のリメイクだとか、色々話題になっていますね。
アニメも、春アニメの終わりが見え始め、夏アニメを調べるような時期になりました。
ま、ゲームもアニメもまったくわからないんですけど、話題になってるってことだけなんとなく知ってます。

他にもスポーツならサッカーワールドカップですよね。
日本はあの監督問題で色々あって、悪い意味で注目が集まってますよね。
なんでも昨日12日は国際親善試合でパラグアイと対戦し、4-2で勝ったそうですよ。
まぁ、自分はまったく詳しくないですが頑張ってほしいですね。

あと野球も、大谷選手はどうやら肘を故障したとからしいです。
オールスター戦というファン投票で選手が決まる試合があるのだそうですが、このままだと絶望的だとかで。
現在DH部門というので、3位が大谷選手なんだそうです。
うーん、怪我が悪化するようなら辞退した方がいいと思いますが、今のところはなんとも言えないですね。
でも、無理をすれば相撲の稀勢の里みたいに、きちんと復活できずにズルズルとしちゃいそうですよね。

IT関連なら、macOSの次のバージョンがMojaveというらしいですね。
iOS12についても、なんでもパフォーマンスが大幅向上して、なんとiPhone 5sにも対応するとかなんとか。
もうおおよそ5年前の端末なのに、サポートが半端ないですよね。
まったくメーカーサポートされないAndroidとは違い、端末が高いにはそれなりの理由があるって感じですね。

っと、色々話題があるっていうのに、自分は本当に上辺だけのクズ人間です。
だからでしょう、こんな自己満足記事しかないのは。
今後もこういった自己満足の記事となることでしょう。

それでは今回はこの辺で。
ごきげんよう